日本最古のトイレ建築物をご存知でしょうか。
「東司(とうす)」といい、禅寺では一般にトイレのことこう呼ぶのだそうで、京都・東福寺の重要文化財に指定されています。
東司を使うことも禅の修行の一つで、使い方にも厳しいお作法があったようです。
トイレの仕方、つまり用を足す仕方に7工程ほどの手順があり、それに従って用を足すこと、そしてそのが後の手の洗い方もきっちり決められていたというのです。好き勝手にトイレに行くこともできず、急にお腹の具合が悪くなったりした場合は大変だったでしょうね。なんとも厳しい修行です。
そしてトイレの“機能”としての発祥は、縄文時代に遡ります。
もともと野山で便意や尿意をもよおすと、人間も動物のようにそのタイミングで用を足していたのですね。いわゆる野糞や立ち小便。
その後、集落が出来、どこでもかしこでも用を足していては匂いや衛生面での不都合が出てきます。この頃から野外の特定の場所で排泄をするようにルール化されます。
時代ごとに進化していくトイレ事情をみていきましょう!
目次
縄文時代
縄文時代の糞石から、生活の場に隣接している貝塚やゴミ溜めの付近に排泄場所があったと推察されています。
鳥浜貝塚(福井県)にあったとされる「桟橋式トイレ」という、桟橋からおしりを突き出して排泄することで排泄物が水に流されていく仕組みが現代に通じる本格的な水洗トイレの発祥だとされています。
飛鳥時代
飛鳥時代。藤原京遺跡では、トイレは汲取式(くみとりしき)で、堀込んだ穴に板を渡してそこにまたがって排便していたようですね。
今でいうトイレットペーパーの代わりに“チュウギ”という糞ベラを使っていたとされています。
奈良時代
奈良時代、貴族の間では屋敷内に水を引き込み、その引き込んだ水路の上に屋根をつけた厠(かわや)で、その水路をまたいで排便していました。かわって庶民は、外の道路側溝に排便していたようですね。
この厠、水を川から屋内に引き込んでいただ“川屋”が語源になっているそうです。
平安時代
平安時代は、空海上人が開山した高野山の寺院や民家で「高野山式トイレ」が普及します。民家では谷川の水を竹筒などで台所や風呂場に配水していた、いわば流れっぱなしの上水道がありました。その排水を便壺のないしゃがみ式トイレに流しっぱなしにしていたようです。特殊な水洗トイレといえますね。
そういえば、祖父はトイレへ行くとき「ちょっと高野山へ!」とよく言っていましたがトイレのことを言っていたのですね!
この頃貴族の間では、「移動式便器」があったようです。現在のおまるに相当するもので、便がたまると使用人が捨てていたとか。
鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、政府は米と麦の二毛作を奨励します。その時代背景から、下肥(しもごえ)と呼ばれ、便は肥料としてとても貴重な存在になっていきます。
汲み取り式の「ポットン(ボットン)便所」が普及し、肥溜めにたまった便を肥料とされていました。
江戸時代
江戸時代には農村で便を肥料として利用することが全国的に定着し、肥溜めから便を汲み取り、それを肥料として売って歩く業者が生まれたとされています。
明治時代
その後、明治維新を経て欧米化が進み、木製の洋風腰掛け式洋風トイレが使われるようになります。
そして、明治の中頃には水洗式の便器が輸入されるようになりますが、一般には普及しなかったようです。
大正・昭和時代
この時代からどんどんトイレ事情は発達していきます。
1920年代に下水道の整備が進みます。
都市部の人口集中やそれによる排便量の増加、そして化学肥料の普及によって便が農村では消費できなくなるぐらいの量になったためですね。
昭和2年には「内務省式改良便所」が出来、病原菌が拡散しない仕組みが作られます。
昭和30年ごろから洗浄槽の設備や公共下水道の建設が進み、水洗トイレが普及するようになります。
昭和57年、屎尿の消化処理事業が廃止されたことによって、水洗トイレが更に広がりました。
この頃の話は祖父母から聞かされたことがありました。
ちょうど私や兄弟が生まれた時代だったため、物心ついたときには水洗トイレで快適に用を足すことができるようになったのですね。
平成14年には水洗トイレ普及率が90%にのぼり、日本の衛生的なトイレ事情が確立されていきました。
時代背景とともに変わりゆくトイレ事情、いかがでしたでしょうか。
現代の水洗トイレが既に縄文時代からその原型があったというのは驚きでしたね。
世界ではまた違った歴史背景があるようですよ。